長月神無月のこと

早いもので 今日から12月。
今年は本当にいろいろとあって
忘れることのない、一年になりました。


8月の末、静岡へ引っ越すことに決まり
義父のところへ報告がてら顔を見せに行ったのが9月の初旬。
そのときに少し喉の調子が悪いように感じ
病院へ行くことを強く勧めた主人。
義父もその忠告を聞き入れて次の週には検査を受けたのですが
その時点ですでに重い症状であることが発覚し
再検査で余命宣告を受けました。




10月の初めの手術の日取りと
そのための入院の日にちがバタバタと決まるなか
詳細な検査でさらに症状は悪化していることが分かり
体力面を考慮して手術はしないことに。
そこからは先生からお話があるたび
『2年』から『半年』へ
そして『年を越すのは無理かもしれません』と
義父の残された時間はどんどん少なく見積もられ
一週ごとにキリキリと覚悟だけをさせられて。


放射線治療も受けない決断を下されたので
「入院していても仕方ない。家に帰りたい」
という義父の願いをなんとか聞いてもらって
最期の一週間は自宅で。


往診の先生や介護スタッフの方に助けられながら
義母がつききりで看病を。
同じマンション内に住んでいる義姉ができうる限りのサポートをしてくれていたのに
私といえば 引越し作業に追われ
たいしたお手伝いもできずに本当に申し訳なくて。


義父にとって せめてもの救いは最後まで痛みが出なかったこと。
あれほど帰りたがった自宅で最期を迎えられたこと。
そして
最愛の孫(私から見ると甥)がしっかり手を握り締めて看取ってくれたこと。


前日に清水へ引越しを済ませていた私たちは
残念ながら間に合いませんでした。


当日朝5時の電話では
前夜に義父の容体がかなり悪化して
私だけでも泊まり込みの準備をして先に来て、ということでしたが
主人も一緒に行くことに決め
そうなると前日に新居に連れてきたばかりの愛猫を
いつ帰れるか分からないまま、お留守番させるのは心配で。
動物病院に預けることにし そちらの準備を始めていると
義母から「二人ですぐに来て!」と悲鳴に近い電話が再び。
そのほんの 30分後、でした。


『来月あたり、の覚悟を』と聞かされながら
引っ越す前日にも会いに行っていました。
それが私たちにとっては最後の義父との対面。
「じゃ、帰るね。また来るよ」と声を掛けると
右手をベッドから差し出して私の手をぎゅっと握りしめてくれた義父。
柔らかくてつるつるの、少しひんやりした大きな手の感触が
まだ鮮やかに思い出されて やっぱりまだ信じられない。


病気の発覚から たったのひと月ちょっと。
その間にみるみる症状は悪化していったのだけれど
痛みが出るわけでもなく
病みやつれするわけでもない義父を前にすると
先生から聞かされる、良くない話を
本当に本当のことなんだろかと どこかで受け入れられなかった。


死そのものや老い、連れ合いのこと。
漠然と そろそろ考えなくちゃいけないなと思っていた、そんなことを
現実として目の当たりに突き付けられた 時間でもありました。


最期のときに手を握り締めてもらいたい人はいますか?
その人を大切にしていますか?
その人は大切に思っているというその気持ちを
ちゃんと知っていてくれていますか?


若いときには聞こえなかった足音が
ヒタヒタと確実に近づいていることを改めて。


私はどのくらい生きただろうか。
あとどのくらい生きるだろうか。


額のなかで穏やかに笑っている義父の写真を見ながら
作業の手を止めて ふといろいろ想う。
そんな風に始まった、2011年師走の朝。